第24話】 【ノビーは、あるぜんちな丸で海を渡った。前編】


1960年8月の初め、私は参考書と着替えを詰め込んだボストン・バッグを持ってあるぜんちな丸に乗り込んだ。ふところにはトラの子の20ドル(7千2百円)。背広を買えばそれも吹っ飛んでしまうので学生服姿にした。デッキの上は、これからブラジルへ渡る人々でいっぱいだった。桟橋にいる大勢の見送りの人たちにテープを投げかけている。アメリカよ!あめりかよ!(p54)

1960年というのは、落合信彦の勘違いである。あくまでも、勘違いです。
8月夏真っ盛りに学生服姿というのも、なんだかなぁ。
それはともかく、

その年の1月20日、"ニューフロンテア"を旗印として史上最年少の大統領ジョン・ケネディがホワイトハウスに入った。彼の就任演説は、アメリカ人の血をたぎらせた。テレビで演説を聞いていた私でさえ、体が震えるほどの感動をおぼえたものだ。アメリカよ!あめりかよ!(p100)

1960年にアメリカに渡っていないと、体が震えるほどの感動をおぼえた1961年1月20日のJ.F ケネディ 大統領就任演説を、例えテレビとはいえ見たことになりませんから。

だって、ノビーはケネディが大好きなんです。特にロバート・ケネディが大統領選に出馬したときには、選挙ボランティアだったのが、同じ場所、同じ時刻に選挙スタッフ。それも、ごくごく近しいスタッフとしてロバートと行動を共にしているんです。それぐらいに、入れ込んでいるんです。

ですから、これは嘘ではなく、あくまでも方便である。方便です。方便だってば!

正確を期すと、翌年の1961年(昭和34年)に渡米。落合信彦は1942年(昭和17年)1月8日生まれ。都立両国高校夜間部を卒業(4年制)ですから1960年だと、米屋のようかんを成田から東京まで運びながら、オルブライト大学で学生生活を送っていたことになる。んな、バカな。

ですから、方便です。方便だってば!

彼が「あるぜんちな丸」に乗船する経緯は、奨学金を受けることは決まったものの渡航費が捻出できない。そこで、

横浜の波止場にテントを張って寝泊りしながら、タダで乗せてくれる船を探した。三日目に、アルゼンチナ丸という移民船に乗っけてもらえた。船底のボイラールームにね。ブラジル行きだけど、ロスアンジェルスに寄るんですよ。 PLAYBOY INTERVIEW (p251)

このときの様子を「あめりかよ!アメリカよ!」では、もっと詳しく書いてある。

落合は、山下公園の隅にテントを張り、アメリカ行きの船を探す。1日目、2日目、と5隻の船をあたるが、すべて門前払い。3日目、3隻目の「あるぜんちな丸」の近くで関係者を待っていたが、誰も降りてこない。陽は沈みかけてきていた。

意を決して「あるぜんちな丸」のタラップを駆け上がる。デッキをウロウロしていると、パーサーに声を掛けられた。千載一遇のチャンス。必死の説得。それが効を奏して、翌日キャプテンに会わせてもらえることとなった。

翌日、船長に会うと

私はその場に土下座して夢中で叫んだ。
「お願いします。乗せて行ってください!甲板掃除でも便所掃除でも皿洗いでも何でもします!これにはぼくの人生がかかっているんです。助けてください!」私は、必死だった。恥や外聞など考えている余裕はなかった。
アメリカよ!あめりかよ!(p42)

感動的なシーンである。落合信彦の若き情熱が、周りの大人たちを動かしていく。この熱意が通じ、船長から、二つの条件付きで乗船を許可される。未成年者ゆえ、母親からの乗船の承諾書をもらうことと、ボイラー・ルームで働くことであった。

出航は4日後の午後3時とパーサーが言った。アメリカよ!あめりかよ!(p42)

「PLAYBOY INTERVIEW」では、「アルゼンチナ丸」とカタカナになっているが、これはPBのチェックミス。正しくは、ひらがなの「あるぜんちな丸」である。落合信彦自叙伝小説「あめりかよ!アメリカよ!」では、ひらがなになっている。

さすが、落合信彦。渡航年月日は違っていても、きっちりと正確に「あるぜんちな丸」と書いてある。情報は正確でなければ、ねぇ。

私たちの40年!! あるぜんちな丸同船者寄稿集 というホームページがある。

1962年3月31日横浜港出航、5月11日サントス港下船。約40日間の航海。落合が乗船してから8ヶ月後に、「あるぜんちな丸」でブラジルへ移民した人たちのページである。

「あるぜんちな丸」1958年4月30日   新三菱重工神戸造船所にて完工。
建造費22億4300万円

A.「あるぜんちな丸」の主要目
総トン数 10,864 トン
全長 156.5 メートル
20.4 メートル
満載喫水 8.7 メートル
主機 蒸気タービン 1基1軸
出力 9,000 馬力
最高速力 19.8 ノット
航海速力  16.4 ノット
燃料消費量 1日 55 キロトン
清水保有量 1.540 キロトン
船客定員 1,052 人 
(1等12人、2等82人、3等960人)
乗組員 121 人

また移民船として建造された最後の船である。
1973年(昭和48年)客船「にっぽん丸」に改装され、日本初の世界一周クルーズ航海に出港。 1976年末、解体のため台湾に曳航されその寿命を終った
ホノルルへの寄港は、1965年(昭和40年)から。

移民船の就航ルートは、神戸、横浜、ロサンゼルス、クリストバル、ラグアイラ、ベレン、レシフェ、リオデジャネイロ、サントス、モンテビデオ、ブエノスアイレス、だった。サントスまでの行程は12,500海里、サントスまで約40日の航海だった。

あるぜんちな丸の二等航海士の方の手記があります。

この間乗った船の数は僅か数日間で乗下船した船を含め22隻ですが、二等航海士時代に乗船した「あるぜんちな丸」には、1961年(昭和36年)7月17日に乗船し、翌年の11月15日に下船するまで、東航南米航路を4航海しました。 この間約1年4ヶ月、生涯一番長く乗っていた船でありました。

ノビーが1961年8月横浜発からアメリカに旅立つとき、吉川氏は、奇しくも「あるぜんちな丸」の初乗船となっていた。吉川氏は、7月17日乗船している。この間、食料や資材の積み込み等の仕事に忙殺されていたことであろう。

次の表を見ていただきたい。

◎”あるぜんちな丸就航月日および渡航者数
西暦年 昭和 出航月日 神戸 出航月日 横浜 渡航者数
1958 33 6月2日 842
1958 33 10月4日 653
1959 34 2月4日 518
1959 34 7月2日 7月4日 763
1959 34 11月2日 11月4日 715
1960 35 3月2日 3月4日 728
1960 35 8月2日 8月4日 778
1960 35 12月2日 12月4日 477
1961 36 4月2日 3月30日 773
10 1961 36 8月2日 8月4日 590
11 1961 36 12月2日 12月4日 477
12 1962 37 4月2日 3月30日 773
13 1962 37 8月2日 8月4日 165
14 1962 37 11月29日 12月2日 148

「1960年8月の初め、私は参考書と着替えを詰め込んだボストン・バッグを持ってあるぜんちな丸に乗り込んだ。」これは、1961年のことであるが、この61年の8月とは、8月4日横浜出航、あるぜんちな丸第10次航のことである。

しかし、この 10次航は、表を見てもらえば分かるとおり、始発が神戸となっている。第9次航のように、横浜始発というのもあるが、「あるぜんちな丸」は、大阪商船三井の船である。

基本的に、寄港地は次のようになる。これは、日本最終寄港地が神戸の場合。
あるぜんちな丸乗組員広野信行次席事務員の寄稿文 (1)

次ぎの通り各港に寄港し一路南米に向かいます。広畑3月23〜25日、名古屋3月26〜27日、横浜3月28〜30日、神戸3月31日〜4月2日、ロスアンジェルス4月15〜16日、クリストバル4月23〜24日、キュラサオ4月26日、ラ・グァイラ4月27日、ベレン5月2〜3日、サルバドオル5月7日、リオ・デ・ジャネイロ5月9〜10日、サントス5月11〜13日、ブエノス・アイレス5月26日到着の予定で、約45日間の航海の始まりです。

各港に寄航している時間は2日間長くても3日間。

資料としては、1924年(大正13年)と古いものであるが、東洋汽船の北米航路汽船発着表を見ると、神戸から来た船が横浜に停泊しているのは、2日間となっている。

もし、落合のいうように、横浜で、パーサーが4日後の午後3時の出発と言ったならば、ノビーは船に乗れない。

ノビーが、船長の前で土下座して懇願し、その結果、船に乗ることを許され喜び勇んで帰途についた、その日か、翌日に「あるぜんちな丸」は出航。

4日後、若き落合信彦が、丸坊主に学生服を着込みボストンバッグをぶら下げ、横浜港に来たときには、乗るべき「あるぜんちな丸」は、はるか太平洋上を航海中。

いくらなんでも、10代後半の若者が土下座までして頼み込む姿を見て、快諾した海の男が、「出航した後で来い」などと嘘をつき、からかったということはなかろう。
これで、落合の「あるぜんちな丸」のエピソードは、作り話だということが証明された。

しかし、ノビーが乗った船は「あるぜんちな丸」だったのか?
ノビーは本当に「あるぜんちな丸」で海を渡ったのか・・。
という新たな疑問が、むくむくと頭をもたげてきた。 
    つづく


目次
誰も知らない落合信彦
●落合信彦 ブックス資料室
●奥菜秀次ブックス資料室
●あめりか冒険留学
●禁断のデビュー作
●落合信彦の消えた履歴書
●ぼく、ノビです
●忘却のかなた
●英会話睡眠学習
●封印された過去
●奥菜秀次氏への伝言
●奥菜秀次氏からの返信
●落合信彦・最後の真実
●落合信彦・破局への道
●ポストスクリプト2005
●落合信彦に全てを捧げた男
●捏造−ジャーナリスト落合信彦・増補新版
●あめりか冒険留学ふたたび
●勝ち組クラブ(The Winners'Club)
●落合・奥菜関連グッズ
●隠し通したかった本
●見えない政府
●日本人のメンタリティ
●ジャーナリストとしての姿勢
●人は我をCIAと呼ぶね 前編
●人は我をCIAと呼ぶね 後編
●ノビーは、あるぜんちな丸で海を渡った。前編
●ノビーは、あるぜんちな丸で海を渡った。後編
●国際ジャーナリストの情報分析
●捏造か真実か
●奪われし者たち
●消された勇者たち
●落合信彦と朝鮮
●差別に必要なもの、それは区別
●失うものといえば命ぐらいしかない
●騙し人
●虎を鎖でつなげ
●捏造、即、削除、南京大虐殺生き証人
●捏造する人々
●教科書から消えた戦争
●危ないジャーナリズム
●若き日の落合信彦
●マイ食器という考え方
●村山富市は何を成し、何を成さなかったか?
●安倍知子 国土保安隊
●山内惠子 気楽な稼業ときたもんだ!
●金子安次 腐れ外道の鬼畜帝国軍人
●捏造作家 吉田清治という男
●親日真相究明法と親日人名辞典
●朝鮮を知るための参考リンク集

船にみる日本人移民史―笠戸丸からクルーズ客船へ
船にみる日本人移民史―笠戸丸からクルーズ客船へ

捏造ジャーナリスト
落合信彦 増補新版

著者:奥菜秀次
出版社:鹿砦社
増補章
ポストスクリプト2005

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