1960年というのは、落合信彦の勘違いである。あくまでも、勘違いです。
8月夏真っ盛りに学生服姿というのも、なんだかなぁ。
それはともかく、
1960年にアメリカに渡っていないと、体が震えるほどの感動をおぼえた1961年1月20日のJ.F ケネディ 大統領就任演説を、例えテレビとはいえ見たことになりませんから。
だって、ノビーはケネディが大好きなんです。特にロバート・ケネディが大統領選に出馬したときには、選挙ボランティアだったのが、同じ場所、同じ時刻に選挙スタッフ。それも、ごくごく近しいスタッフとしてロバートと行動を共にしているんです。それぐらいに、入れ込んでいるんです。
ですから、これは嘘ではなく、あくまでも方便である。方便です。方便だってば!
正確を期すと、翌年の1961年(昭和34年)に渡米。落合信彦は1942年(昭和17年)1月8日生まれ。都立両国高校夜間部を卒業(4年制)ですから1960年だと、米屋のようかんを成田から東京まで運びながら、オルブライト大学で学生生活を送っていたことになる。んな、バカな。
ですから、方便です。方便だってば!
彼が「あるぜんちな丸」に乗船する経緯は、奨学金を受けることは決まったものの渡航費が捻出できない。そこで、
このときの様子を「あめりかよ!アメリカよ!」では、もっと詳しく書いてある。
落合は、山下公園の隅にテントを張り、アメリカ行きの船を探す。1日目、2日目、と5隻の船をあたるが、すべて門前払い。3日目、3隻目の「あるぜんちな丸」の近くで関係者を待っていたが、誰も降りてこない。陽は沈みかけてきていた。
意を決して「あるぜんちな丸」のタラップを駆け上がる。デッキをウロウロしていると、パーサーに声を掛けられた。千載一遇のチャンス。必死の説得。それが効を奏して、翌日キャプテンに会わせてもらえることとなった。
翌日、船長に会うと
感動的なシーンである。落合信彦の若き情熱が、周りの大人たちを動かしていく。この熱意が通じ、船長から、二つの条件付きで乗船を許可される。未成年者ゆえ、母親からの乗船の承諾書をもらうことと、ボイラー・ルームで働くことであった。
「PLAYBOY INTERVIEW」では、「アルゼンチナ丸」とカタカナになっているが、これはPBのチェックミス。正しくは、ひらがなの「あるぜんちな丸」である。落合信彦自叙伝小説「あめりかよ!アメリカよ!」では、ひらがなになっている。
さすが、落合信彦。渡航年月日は違っていても、きっちりと正確に「あるぜんちな丸」と書いてある。情報は正確でなければ、ねぇ。
私たちの40年!! あるぜんちな丸同船者寄稿集 というホームページがある。
1962年3月31日横浜港出航、5月11日サントス港下船。約40日間の航海。落合が乗船してから8ヶ月後に、「あるぜんちな丸」でブラジルへ移民した人たちのページである。
「あるぜんちな丸」1958年4月30日 新三菱重工神戸造船所にて完工。
建造費22億4300万円
| 総トン数 | 10,864 トン |
| 全長 | 156.5 メートル |
| 幅 | 20.4 メートル |
| 満載喫水 | 8.7 メートル |
| 主機 | 蒸気タービン 1基1軸 |
| 出力 | 9,000 馬力 |
| 最高速力 | 19.8 ノット |
| 航海速力 | 16.4 ノット |
| 燃料消費量 | 1日 55 キロトン |
| 清水保有量 | 1.540 キロトン |
| 船客定員 | 1,052 人 (1等12人、2等82人、3等960人) |
| 乗組員 | 121 人 |
また移民船として建造された最後の船である。
1973年(昭和48年)客船「にっぽん丸」に改装され、日本初の世界一周クルーズ航海に出港。
1976年末、解体のため台湾に曳航されその寿命を終った
ホノルルへの寄港は、1965年(昭和40年)から。
移民船の就航ルートは、神戸、横浜、ロサンゼルス、クリストバル、ラグアイラ、ベレン、レシフェ、リオデジャネイロ、サントス、モンテビデオ、ブエノスアイレス、だった。サントスまでの行程は12,500海里、サントスまで約40日の航海だった。
あるぜんちな丸の二等航海士の方の手記があります。
ノビーが1961年8月横浜発からアメリカに旅立つとき、吉川氏は、奇しくも「あるぜんちな丸」の初乗船となっていた。吉川氏は、7月17日乗船している。この間、食料や資材の積み込み等の仕事に忙殺されていたことであろう。
次の表を見ていただきたい。
◎”あるぜんちな丸就航月日および渡航者数| 西暦年 | 昭和 | 出航月日 神戸 | 出航月日 横浜 | 渡航者数 | |
| 1 | 1958 | 33 | 6月2日 | 842 | |
| 2 | 1958 | 33 | 10月4日 | 653 | |
| 3 | 1959 | 34 | 2月4日 | 518 | |
| 4 | 1959 | 34 | 7月2日 | 7月4日 | 763 |
| 5 | 1959 | 34 | 11月2日 | 11月4日 | 715 |
| 6 | 1960 | 35 | 3月2日 | 3月4日 | 728 |
| 7 | 1960 | 35 | 8月2日 | 8月4日 | 778 |
| 8 | 1960 | 35 | 12月2日 | 12月4日 | 477 |
| 9 | 1961 | 36 | 4月2日 | 3月30日 | 773 |
| 10 | 1961 | 36 | 8月2日 | 8月4日 | 590 |
| 11 | 1961 | 36 | 12月2日 | 12月4日 | 477 |
| 12 | 1962 | 37 | 4月2日 | 3月30日 | 773 |
| 13 | 1962 | 37 | 8月2日 | 8月4日 | 165 |
| 14 | 1962 | 37 | 11月29日 | 12月2日 | 148 |
「1960年8月の初め、私は参考書と着替えを詰め込んだボストン・バッグを持ってあるぜんちな丸に乗り込んだ。」これは、1961年のことであるが、この61年の8月とは、8月4日横浜出航、あるぜんちな丸第10次航のことである。
しかし、この 10次航は、表を見てもらえば分かるとおり、始発が神戸となっている。第9次航のように、横浜始発というのもあるが、「あるぜんちな丸」は、大阪商船三井の船である。
基本的に、寄港地は次のようになる。これは、日本最終寄港地が神戸の場合。
あるぜんちな丸乗組員広野信行次席事務員の寄稿文 (1)
各港に寄航している時間は2日間長くても3日間。
資料としては、1924年(大正13年)と古いものであるが、東洋汽船の北米航路汽船発着表を見ると、神戸から来た船が横浜に停泊しているのは、2日間となっている。もし、落合のいうように、横浜で、パーサーが4日後の午後3時の出発と言ったならば、ノビーは船に乗れない。
ノビーが、船長の前で土下座して懇願し、その結果、船に乗ることを許され喜び勇んで帰途についた、その日か、翌日に「あるぜんちな丸」は出航。
4日後、若き落合信彦が、丸坊主に学生服を着込みボストンバッグをぶら下げ、横浜港に来たときには、乗るべき「あるぜんちな丸」は、はるか太平洋上を航海中。
いくらなんでも、10代後半の若者が土下座までして頼み込む姿を見て、快諾した海の男が、「出航した後で来い」などと嘘をつき、からかったということはなかろう。
これで、落合の「あるぜんちな丸」のエピソードは、作り話だということが証明された。
しかし、ノビーが乗った船は「あるぜんちな丸」だったのか?
ノビーは本当に「あるぜんちな丸」で海を渡ったのか・・。
という新たな疑問が、むくむくと頭をもたげてきた。
つづく
捏造ジャーナリスト
落合信彦 増補新版
著者:奥菜秀次
出版社:鹿砦社
増補章
ポストスクリプト2005
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