【第21話】 【 かわいいペットと可哀想な私 】

いま、荒川の土手で繁殖している、ウサギが話題になっている。

このままだと、土手の草が食い尽くされ、穴だらけになってしまうのだそうだが、国土交通相も、 捨てられたものではなく、飼い主?がホームレスのオッサンだということで、手をだしかねているようだ。

あのオッサンが、あの場所に居住権があるのかどうかという点にも、興味はあるのだが 、そのことではなく別の視点から。

このオッサン、ウサギのオスとメスとを分けるということに反対しているらしい。

ウサギは、年に3回から4回出産し、1回に、1匹〜9匹の仔を産む。 そして生後3ヶ月で子供が産める体になる。寿命は5〜6年、上手に飼うと10年ほど。

ネズミの場合、生後3ヵ月から出産し、年に6〜7回分娩し、1回に6〜8匹の仔を産む。 寿命は2〜3年。ということは、繁殖力という点では、寿命が長いことを考えると、 ネズミにも劣らないともいえる。

TVで荒川のウサギを貰いにきていた子供のことが放送されていた。
ウサギを抱いて「可愛い」と頬ずりしていた。
あの子が、ウサギの寿命が尽きるまで、面倒をみて欲しいと思った。

最初は「可愛い」から始まったものが、成長するにつれて自分の手にあまり、終いには捨てる。 そんな風潮が、はびこっている時代だからこそ。

動物は人よりも、はるかに寿命が短い。
そのことを考えて、ペットを飼うという、覚悟が必要なのだ。

ペットロス 自分で飼っていた動物が死んだショックで、食事も喉を通らず、 仕事も手につかないというような事態に陥る病気なんだそうだ。

自分で買っていたペットに対する愛情の深さが、尋常ではないのだろう。

そして、そんなペットロスの人々を癒すため
死んだペットの毛皮でマフラーを作り、焼いた骨をリングに埋め込んでくれる所まであるのだそうだ。

一緒に暮らしていたペットの分身を身に付けることによって、安心感が得られるということらしい。 なんでも商売になるということなのだろう。

この話に、薄ら寒いものを感じる。あえて病人にムチ打ってみよう。

ペットのところを、人間に置き換えてみたら、よくわかる。

愛する人の髪の毛をマフラーにし、愛する人の骨をリングに埋め込み、肌身離さず持ち歩く。

ホラーの世界だ。

ペットが亡くなり、それにショックを受けるというのが子供であれば、それはそれで理解できる。

ぼく自身、自分の家で飼っていた猫が死んだときには、少なからずショックを受けた。

ただし、農家において猫を飼うというのは、単なるペットではなく、ネズミを捕るという極めて重大な任務を背負っていた。

猫は、ネズミばかりではなく、カエルや蛇など小動物も捕って来ては、飼い主に誉められようと、 一生懸命に捕ってきては、家の中に持ちこんできていた。そして、そういう猫が、いい猫だといわれた。

なかには、ネズミを恐がる、臆病者の猫もいるにはいたが。

それと、鶏肉の料理が食卓に上がっていて、それが自分ちで飼っていた鶏だと聞かされたときには、 さすがに、箸をつけることが出来なかった。という思いでもある。

もちろん、鶏を飼うというのは、卵も含めて「食うため」であったというのを、子供なりに、 頭では分かっていたのだが。

そのほか、ウサギも飼っていたし、ヤギも飼っていた、全ては食うために。

他に鴨を捕まえて、飼っていたことがあった。

鴨はなかなか、人の手からエサを取らない。与えたエサを、食わずに餓死することがほとんどなのだ。 スズメも同じ。それだけ、飼育が難しいともいえる。

鴨は雛のときに、数羽捕まえてきて、むりやり口をあけてミルクを飲ませたり 練り餌にしたものを食べさせたりして、やっと一匹だけ育ったものだった。

それが、ある夜のこと、イタチかテンに襲われてしまった。
これは、無残でもあり、無念でもあり、かわいそうなものであった。

しかし、そうやって「死」というものが日常生活の一部であるということを、 身をもって知らしめられていたのだ。

話をペットロスに戻して、これに掛かるのは若年者だけではない。
30代、40代、それ以上の年齢の人でも、掛かるらしい。

このことを考えると、彼らは、自分の身の回りで、人の「死」というものに遭遇したことがなかったのだろうか? と考えてしまう。

祖父母、親戚、友人、ご近所、等々、全く葬式というものに、出たことがなかったのか?

もし、そうだとしたら、かなり特殊な生活というか、人生を送ってきたのでしょう。 そうであれば、ペットの「死」が、初めての「死」との遭遇ということでしょうから、 これは、お気の毒としか言いようがありませんが。

まあ、成人していることを考えると、そんなことは、ありえない話でしょう。

人の葬式、それは、彼らには、「ペットの死」以上のものではなかったということです。
人の死以上の動物の死。って、いったいなんだろうか?

「だって、ズーッと家族同様に、一緒に暮らしていたのよ、可哀想でしょ。」というのかもしれない。
この可哀想という言葉には、自分を高みにおいてという意味も、含まれているのだそうだ。

そう考えると
「家族同様に一緒に暮らしていた、ペットの死を哀れむ、なんて心優しい自分」 に酔いしれている、究極ともいえるマスターベーション的自己愛。

この自己愛は、今の日本中に蔓延している。それは、「オオクチバス」の問題にも通じるものがある。

何を強引な。無理やりそう持ってきたか。と思うかもしれないが、釣りをやらん、ぼくでも「オオクチバス」駆除 反対を唱えている人間に

「あんたらの、マスターベーション的自己愛。みっともねぇぞ。」とだけ言っておこう。

「オオクチバス」の共食い写真を見てから、これが頭から離れないなぁ。
(釣りもやらんのに・・・。