【第3話】 【 或る百姓の記録 第三章 】

時が変わって昭和の時勢、其の色々な事件や思いで深き印象に残る。
同情豊かなお人好しの髪結いを妻に持ちたる中山さんには随分とお世話になり■に入って月給七十円、当時としては恵まれた仕事。

富士登山や春は花見と歌舞伎とか廓では仲町、角町、京町、揚屋町、江戸町、夜の流しはゆかしく情緒、未だに風情は深く心のどこかに残るものはある。

昭和二年春、父と伯母(宿)東京見物を妻の初出産を祝うが如く。
浅草、宮城、泉岳寺、橋場工場へと其の喜びはいかばかりかと後々までも語らいしとて。

丸高に於て富士登山を決し店の安さん、其れに主人の細君の手縫いの上着に心勇み立ち、夜の新宿駅より臨時列車。七月十七日出発。

たん麗な山肌実にアザヤカにして天然自然の美。
それに頂上より連なる登山者の多いのには驚く。

三足のワラジをはきつくし、正午過ぎ頂上に着く。
風寒く、天気晴朗なれども、息くるし。

白雪あれども寧ろ氷と云えよう。
一派の氷連なり寒い風は其のつやを増し堅く手にはつかめぬ。

火口は巡り一里位かと思はれ千丈の谷、水無き山に底だけに水見ゆるは不思議に思える天然現象。降りかかる焼石ばかりに出来たゾクゾクの降り口。

御殿場をさして午後一時過、一飛びに下る。
長く續く登山者。麓の砂道、遠さは疲れを増し暑さを加え、夕刻列車で五里位、御殿場駅に着く。

大正の末期在郷軍人として今上陛下、皇太子として東行御見学の折、横手町に於て護衛兵として務む。

時の会長渡部定治の指導と社会訓導を受くる事、長年して又練習召集として、秋田聊隊へは豫備役、後備役と二回の召集。昇進等在り。

昭和五年五月九日、出稼ぎ先、東京丸和より帰郷。聊か積み重ねの貯金も出来一家の暮らしに自信を持ち養蚕を専らとす。

昭和七年十月十四日母(サキ)六十二歳にして急死。 哀愁の念堪えがたく只冥福を祈る。
幼心に愛撫されし母、慈のある母、深き思い感謝する時、悲しみを増す母、苦労の多かった母、五歳と三歳になる孫の養育も前に終る。

フイに起こりし露溝橋事件に端を発した支那事変。

七十二歳の父、妻、三人の子供を後に招集を受け、昭和十二年九月第二次充員召集にて、牧野部隊(高橋分隊)渡辺、三浦、寫田、土屋、中西、菊池、熊谷、佐藤、朝霧、安保、田子)秋田市、大友長三郎宅より出立、神戸、田中一也より盛大なる見送りにて乗船。

箱庭の如き瀬戸内を後に、東支那海を経て塘沽(タンクー)上陸、直ちに奉皇島、彼の有名な萬里の長城を起点とする。

山海関續いて第一線を進撃する柏崎部隊の後を掃討、討伐部隊そして天津を始め、北京、南口、長家口、田家、社、其の移動の早さには驚く。

大城壁を護する惇県には暫く前に部隊をき大牛鎮の戦斗

明くる年の一月零下二十度の寒気、夜明けの戦斗には思い出深く、代県石門口、娘子関等忘れがたき事ばかり、其の又夏の昔陽の孤城に三ヶ月の警備には連終なく中隊の孤独を深く身に沁む。

聞く処、日本軍の広範な戦斗区域には只恐ろしき致命傷を感ずる。
山西省第一の都市太原に暫く足を止め支那の風土風物を心にとどめ、年の暮れ老兵部隊故か移動、交替、愈帰還の途に着く。

石家荘を経て、あの広漠なる肥沃に富む大平原地帯河北を保定を過ぎ永き汽車輸送に身を置く夢の如く過ごす十八ヶ月只まぼろしの如くまぶたに浮かぶ。長辛沽、豊台、天津を経て塘沽より帰還。

広島にて検疫と検関を得て暗い夜秋田駅に着く。

間もなく大東亜戦争となり独逸に次ぐ大二次世界大戦となる。
国家総動員、戦域は拡大、補充補充で召集され青少年は徴用、残る老人や婦女子で銃後を守る。

日を追って物資は缺乏隣狙を以って配給制度となり時には勤労奉仕、田圃に山に又は松根堀りにと、日ごとに国民の生活の苦しみ増すばかり。

昭和十六年父嘉一郎享年七十七歳を以って卒す。
貧なれども平凡な生涯を終える。
然し父の死に對しては哀愁の念、
身に沁みる。
大道良円信士

翌年十七年よりは自分の健康を害し胃腸の障害を起こし永年充分なる活動出来ず。
残念ながら聊か養蚕、タバコ耕作等と専ら自家労働に専念す。

疲労多く缺乏生活は續く。 供出制度は厳重にして農家ながらも飯米にも缺く事ばかり。
加えて偲ての物資殊に衣類などは極度に頻す。

軍の戦況は日に日に戦死者の激増玉砕、十幾年の戦いは力尽き本土に敵機飛来。
日本全土に空襲を受け、殊に長崎と広島に原爆投下され其の恐ろしさは全く言語に絶す。
昭和二十年世界大戦は終結す。 最高責任者たる東條その他の閣僚は自、他、冬に其の刑に依る。

尚、都会よりの疎開者の存在は減り、同情は堪へぬ者ばかり。
米軍の進駐に依りマッカーサーの改革、新憲法の樹立。

吉田内閣によって弱小農業国として、昭和二十二年には不在地主の解消、働く者の自作農として極度に欷した。

食料不足の為、全国民増産、増産と懸命の努力を尽くしたのである。
其の後も尚ヤミ取り引き各地各所に流行する。

お金よりはお米、日用物資の交換農家を頼っては都会より田舎へと夥しい買出人で一時はただ生きる為のたたかいのやう。依って農家はハじて惠まれたのである。

昭和二十四年よりタバコ耕作者として供出制なれど増産に依って優良者として、妻は招待を受け仙台、飯坂と二泊三日の旅行したのも此の時である。

尚、其の後関西方面へも団体旅行にて福井、奈良、高野山、京都、岡山、四国の金毘羅さんへと十日間の旅行も私としては至極満足するところであった。

昭和三十四年、腸閉塞の為手術を要することになり平鹿病院にて加療。

昭和三十六年三月山形にて、姉(よし)享年七十一歳にて死去。
早く夫、興太郎に死に別れ、大東亜戦争に於ては二人の子供を戦死させ、
不幸とは云え平凡な寧ろ恵まれた生涯と云へよう。

昭和三十七年、真夏の暑さがたたり顔面神経麻痺のため瀕死の煩いとす。
尚、病魔は続く昭和四十年一月第二回目の腸の切開手術を平鹿病院約四十日入院加療
同三月大曲市に於て痔の大手術、入院十日間。
同五月第三回目の腸の癒着の為、死を覚悟の大手術。

全く死出の夢如し。幸いにも昭和四十二年には永泉寺主催の京都見物。

同三月二十日秋田駅より寝台車にて福井、比叡山、京都各所(二泊)奈良、伊勢、二見ヶ浦、横浜、東京と一週間の旅行をなす。

殊に印象に残るのは宇治の平等院、奈良の東大寺、東本願寺、金閣寺、西芳寺、平安神宮、大徳冶、清水寺のおとわの滝、次に伊勢の皇大神宮参拝後、二見ヶ浦泊り、名古屋より鶴見の総本山総持寺泊り。
翌日横浜より東京を見学。六十名の団体旅行、斤佛の大供養を遂る。

終わり  

文章はこの後もつづくのだが、個人的なものなので割愛。


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