【第2話】 【 或る百姓の記録 第二章 】

徴兵制のあった時代の話である。シベリア派遣、そして帰還。 集落で最初の出稼ぎへとつづく。

時代年表

1914
(大正3年)
 第1次世界大戦
1918
(大正7年)
 米騒動 
 シベリア出兵
1920
(大正9年)
 国際連盟設立
 第1次世界大戦後の恐慌始まる。
1922
(大正11年)
 海軍軍備制限条約に調印
1923
(大正12年)
 関東大震災
1925
(大正14年)
 治安維持法交付、普通選挙法交付

大正八、九年猛強な独逸、ソ連との戦は世界大戦となり欧州大戦。
日本は経済的に一時的に景気素晴らしく壱俵四円代のお米はウナギ昇り二十有余円。續く貧困な農家も酒々夜に昼に歌声を聞くと云ふ。

其の前の有様は実に記録的なもので未だ忘れ得ざる
年の瀬を前にしてカゼはやり、流行感冒にて大多数の死者が出たのもこの年であった。

八年は明けて二十一歳適令検査に於て甲種合格。
大正十年十二月十日、時の村長、菅原三之助と共に夜の秋田駅より人力車にて肴町の旅館に一泊、

睦合入営兵七名、一夜を明かし翌日十日秋田十七聊隊方六中隊に入隊す。
吉原少将、樋渡班長の訓導を受け生真面目な毎日。

一期も過ぎ特別教育を受けるや桜花咲く五月初旬、西比利亜(シベリア)派遣軍として五月三日秋田聊隊出? 船川港町一泊して軍の輸送船、色丹丸に。

何より船酔いには閉口。
只々戦友小野八重吉の厚い思いやりには未だ忘れ得ぬものがある。

風強く波高い二昼夜にして浦塩港上陸するや、只々目を見張るばかり。
異国の風物、堅固な建物、道路、元ロシアの海兵團に入る。

広い港を前に左右に広がる市街。
後は山。第一から第七まで延々と續く堡塁。
其の規模の広大なこと実に言語に云い表せざるものばかり。

ただし革命のため半ばにして未完成なれども堡塁に連なる巨砲はたれしも驚かざる者はなし。

広漠たる飛行場、又いてれり續く二番川の砲弾の野積みされた弾薬箱、只々恐れ驚くばかり。山には幾十と数知れぬ弾薬庫。

我が軍は革命後、沿海州治安の為、派遣されたのである。
時の軍司令官橘少将、セントラル市街に於て閲兵時の十七聊隊旗手木村少尉、深き霜き夜、軍用犬を連れての逃察隊、砲の実弾射撃、想夫憐の慰問團、■に天草の女等は深く印象に残さる。

急激に来る大陸の寒気。十月には軍の引き揚げにより厳重なる警備と勤務その寒さは、身にこたえる。

十月二十五日浦塩港より帰還途中函館に於て検疫を受け点滅する夜の港を名残り思ひ
六ヶ月の従軍を終える。聊隊復帰後まもなく一年帰休となる年の冬雪深き南部の湯川鉱山、柏崎興太郎のお世話に依り雑役に勤務。

時あたかも横黒(横手・黒沢尻)川尻までの鉄道開通にて地元民の盛大な祝事おぼろげに偲ばる。

その翌年であったか、父母のはからいで舟沼よりトクエ来る。
翌春には帰りて東京の工場とかへ。

大正十二年九月一日、関東大震災実に國を揚げての騒乱で大火災の為十数万の罹災者を出す。

大正十四年、年老いたる父母を抱え将来を案じ、堅い決心のもとに出稼ぎへと。
大島町の姉を頼り神田(百)に一冬、春までにして帰郷。
おそらく自他(*ともに認める集落での*)出稼ぎの始まり。

翌秋には同神田駅の(八)に三年余。