【第1話】 【 或る百姓の記録 第一章 】

彼は明治34年(1901年)貧農の家に生まれ、昭和61年(1987年)に1百姓として86年の生涯を終えた。 これは、そんな彼がコツコツと書き溜めていた文章である。 第1章は、尋常小学校を卒業後、地主のもとに奉公にでて、終えるまでの記録である。 これを書いたのは、文中にあるように70代半ばのことであろう。そして、下記年表にあるような時代であった。

時代年表

1902
(明治35年)
日英同盟に調印  
八甲田山雪中行軍遭難(199人死亡)
1904
(明治37年)
日露戦争開始
1908
(明治41年)
第1回ブラジル農民移民 笠戸丸791人(799人?)
1910
(明治43年)
大逆事件、韓国併合
1911
(明治44年)
米価騰貴、細民救済策外米売り出し。
東京米穀取引所、定期米取引中止を命令
1912
 明治45年
 大正元年
日本オリンピック初参加
第5回ストックホルム大会 派遣選手2人
米価高騰で生活困窮広がる
1913
(大正2年)
東海道本線全線複線化完成 
1914
(大正3年)
第1次世界大戦参戦
1918
(大正7年)
米騒動 
シベリア出兵

雨ごとに洪水に見舞われる。
宿 二十七番地、源七より出し祖母(フミ)舟沼よりの母、サキ。父嘉一郎を父母として生れし。明治三十四年四月二十日。

家業、祖母のトーフ。自由労働なりし由。当時の貧困さは深く偲ばれる。

時の村長、菅原丑太郎の雇い、及び病舎の管理者として、明治三十六年、 下谷地□三□番地移轉。
親子三人の生活は、どうやらもつかの間、明治三十七、八年。日露戦争 国民の窮乏言語を絶す。当時の生活、全く想像以上。

明治四十一年、現在の字宿、屋敷新築された。睦合小学校へ曲がりなりにも入学。

姉のよしは、高尾田へ奉公。二女トヨは十一歳にして埼玉県製糸工場へ女工として四、五名の同僚と共に去る。

その当時の衣食住は現在と比して全く雲泥の差。通学には下駄やわらじ。雨具はミノ、ツグハグの着物。

日露戦争、明治三十七、八年勝ち戦とはいえ、国をかけての戦い。当時、国の経済は極度に疲弊し。続いて明治四十三年より三ヵ年の不作。農家なれども其の日の飯米なく、大根の混食などで、やっと飢えを凌ぐと云う有様。

只、早生トラと云う品種ばかりは良く稔りしとか子供ながらに聞く。其の前、外来、南京米と云って古いマズイお米で、どうやら飢えを凌いだといえやう。

明治四十三年祖母(フミ)死去  利元妙容大姉
中風の為、まる三年寝たきりで、母(サキ)の苦労は未だ思ひ知らされるものである。

大矢出身の和賀市蔵先生。横手町出身の亀澤先生に学び学門に興味を得て同級生、土屋貞次郎、 佐藤順次郎、藤川得冶、鈴木惣吉、小西初太郎、信太、山本、羽川、等々。大正三年三月、人並みに尋常小学校を卒業す。

当時の米価は四年に入り、壱俵三円七、八拾銭、白米一升は、約拾銭くらいかと記憶に残る。 十四歳にして春の農作業に菅原徳冶宅にて、正太郎、カヤ、ミツエ、共に奉公に入る。 秋は、宿、本家にて興三郎夫妻と稲刈りを終え秋作業と農事の一般を習得す。

権現様参拝に際して湯沢町に初めての電灯をみる。その明るさには只々驚くばかり。

陸、空の秋季大演習、県南部一円に於て菅原慶太郎、現役当時、志摩川原を中心として、飛行機、野砲等々珍しく見学す。

過ごして十二月九日、信太吉冶宅に農事奉公に入る。信太寿之助、柿崎源助、土谷末吉、夏の山、冬の山等々、其の時の苦労は未だに忘れられぬものばかり。

数年前、水害、不作と続いた当時、移住せる十数件の方々の北海道北見の国の話などを聞く時聊、只々青春の意欲を燃やすのであった。

十六歳にして十数人のグループ祇園囃しに入って、太鼓、ツヅミ、三味線、鍾、踊り子と威勢のよさには若者の血はおどるのであり、祭りの行列に文化藝能として永く續くであろう。

大正八年私十九歳。八月務備役、留守中の出来事。北海道より入学の為、来たりし主人とは叔父、オイの仲。泰冶君非常に懇意になり。其の又、六歳上なる彼とは生涯忘れ得ぬ青春の情。

雨の夜、南の空に見る火事。其の夜の出来事なれども、五十有余年記憶は新しく、其の凄さは、風、土、草木まで未だに忘れ得ぬものがある。

過ごす月日は長く、思い出の多い育ての故郷、川前。五年間。生い立ちの郷土育ての故郷とも云える川前を五年間。二十歳の時は真角矢野宅へと奉公替え。

二親の思ひを致すと左様せざるを得なかったのである。心のさびしさを、どうする事も出来なかったのである。